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伊勢という文字を目にすると胸がジーンとなる。20年前、認知症の母を松坂の老人施設に入所させてもらった。色々なイベントがあり、お伊勢さんにも出掛けた。車イスに乗った母と伊勢神宮に向かって手を合わせおかげ横丁へ。
昼食は伊勢うどんとてごね寿司。母とこうして来られるなんて、と帰り道涙した。コロナ禍になり施設での面会さえも難しいと聞く。あの青空、清んだ五十鈴川、私は忘れない。
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何故か3、5、9月に母娘でお伊勢参りをするのが恒例のデートでした。車での道中も近況を話す良い時間で、「うんうん」と頷きながら寝ていくのも見慣れた母の姿です。
お伊勢参りも順ルートで一緒に歩き、お腹が空けば伊勢うどんを食べ、「家用だよ」とまた伊勢うどんを買う。自由な母と、自由な時間。今は離れていますが「スーパーに伊勢うどん売ってたんだ、やっぱり美味しいね」と連絡が来るとあの旅を思い出してくれる嬉しさと、また連れて行ってあげたいなと母を恋しく思います。
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伊勢との初めての出会いは幼き日の白黒写真に残る。二見浦をバックに亡き父が撮るレンズを眩しそうに覗いている。小学校の修学旅行で初めて食べた生姜糖の味。ドライブデートの夫婦岩。我が子と歓声を上げた歴史テーマパーク。心洗われるお伊勢参り。人生の折々に何度も訪れてきた伊勢は遠方の友人のようだ。たまの出会いがうれしく、すぐに旧交を温めることができる。
昨春、子どもが独立し、夫婦二人の暮らしになった。今まで以上にゆったりした時を過ごそうじゃないか。伊勢よ、これからも良き友でいてほしい。
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あれは2年ほど前、コロナが流行する前の最後の親子旅でした。両親たっての希望で伊勢神宮に行くことになった私達。しかし敷地は思ったよりも広大で、足の悪い父は、なかなか思うように歩くことが出来ませんでした。もっと快適に過ごせるように、ああしてやれば良かったこうしてやれば良かったと、今思い出しても胸がチクリと痛みます。
あれから親子での旅行は行けていません。伊勢の神様、どうかコロナが収束しますように。そしてもう一度、私にリベンジのチャンスを。両親に快適な旅をプレゼントしてあげたいのです。
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念願の伊勢神宮でお参りをして、親のために初めて電動車椅子を使いました。離れて暮らしており、帰省中には見せない、のびのびとした親の笑顔が印象的でした。
年老いた親の笑顔を守っていきたいと再認識できました。また親子で伊勢神宮を訪れ、笑顔溢れる時間を過ごしたいです。
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高齢の母がずっと行きたいと願っていた伊勢の旅。実行できるうちにと昨年母娘二人旅を決行。
子どもの頃に訪れたという伊勢神宮の景色を見て涙した母。そして伊勢うどんを食べておいしいとまた涙。
すっかりなくなった食欲が柔らかい伊勢うどんのおかげで戻ったようで、おいしいものをたくさん食べて大満足の旅になりました。
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定年を迎えた11月末、娘たちがお伊勢参りに「お疲れさま、接待旅行」ヘ連れて行ってくれました。当日のお昼ご飯は、お伊勢参りには幾度となく訪れていましたが、一度も入ったことのない外宮参道の「豚捨」でした。
そこで食したのは「ビフテキ丼」!お肉を口に入れた瞬間、美味しさがいっぱいに広がって思わずフッ!と笑みが溢れてしまいました。そのビフテキ丼の写真です。我が娘たちよ!ありがとう!父は幸せだ!!
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四十年前、夫との結婚に反対された。女手ひとつで育ててきた母にとってあまり裕福でない夫との結婚は許せるものではなかった。
嫁ぐ朝、うしろめたい気持ちで伊勢神宮を参拝するとなぜか母が追いかけて来た。
「これ持ってけ」
差し出されたのは色褪せた着物。そのまま母は参拝もせずに立ち去った。こんな時「おめでとう」くらい言ってくれたらいいのに。頑張れよと肩を抱いてくれたらいいのに。だけどぶっきらぼうな愛情が沁みて仕方なかった。
呉服は五福。
この着物は母の祝福でもあり、娘の幸せを願うエール。母ちゃん、絶対に幸せになるよ。神社をあとにする背中にそう誓った。
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2020年コロナ禍の真っ只中。
第二子を里帰り出産で帰省中の長女、近くに嫁いだ次女の第一子出産を控え、孫守りに明け暮れた一年でした。
時間がある度に鳥羽マリンターミナルへ。フェリーや船を見せに行き楽しんだ貴重な時間でした。
近場で想い出作りができる自慢の伊勢志摩、唯一の場所です。
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父の実家へ帰省するときに必ず立ち寄る、不思議で特別な場所。それが子供の頃に抱いていた伊勢神宮への印象でした。凛とした空気に包み込まれた雰囲気は壮大な物語の中に入り込んだようで、緊張しながらも安心する気持ちを今でも覚えております。
両親と繋いだ手を頼りによちよちと参拝へ向かう小さな足取りは、歳を重ねるごとに両親の歩幅に合わせるようになり、ゆっくりと深呼吸をして神聖な参道を進むことで人生の岐路に立つ場面でも幾度となく勇気をいただきました。
お伊勢さん、いつの日か家族と再び訪れることができたときは変わらない優しさで迎えていただけたら幸いです。
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いつもは車で行くお伊勢参りですが今回は徒歩と電車とバスとフェリーの日帰り旅を楽しみました。
今回は「呑む」と心に決め(いつも夫が呑むので私が運転手)フェリーの中から飲み始め、外宮参道でビールの飲み比べをしたり内宮のお参りの帰りにおかげ横丁で飲み、お伊勢参りには必ず寄る赤福本店で出来立ての赤福を食べました。めちゃくちゃ楽しめました。
亡き母とまた来たかった。私はずいぶん太ってしまったけど子供の頃お伊勢参りに母と行った唯一の写真です。同じようなポーズで撮ってみました(笑)
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母と2人でいつも伊勢へ行きます。足の悪い母も伊勢神宮へ行くとゆっくりながらも歩きます。砂利道を歩くと足の裏が刺激されて健康にいいね!など、毎回同じ事を話しながら、2人で歩きます。普段なかなか一緒に歩く事がないので私達にとって、とても素敵な時間を伊勢神宮で過ごさせてもらってます。
そして、木々から、マイナスイオンを浴び沢山歩きとても健康になった気になります。赤福は必ず行き冬の時期になると、赤福ぜんざいを1人で2人前食べます。73歳の母も先日2人前食べました。甘すぎず小豆も美味しく餅も美味しい!これを食べなければ伊勢を去れません!
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毎年欠かさずお参りに行っていたお伊勢さん。
妊娠中に実家の母が安産守りを送ってくれ、無事に娘を出産しました。しかし、生まれて間もなく新型コロナウイルスの蔓延。
なかなかお礼参りに行くことができず、今秋ようやく念願が叶いました。
泣いてばかりだった小さな娘が、宇治橋から正宮まで拙いながらも一生懸命、自分の足でトコトコ。手水舎では一丁前にお清めをしていました。
「おかげさまで無事に生まれました、元気いっぱいに育っています」とご報告ができました。
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数年前、憧れだった伊勢へ家族旅行しました。伊勢神宮の前に、まずは二見興玉神社で参拝をする事に。真冬で震えながらも、どっしりと構える夫婦岩や打ち寄せる波の景色に感動し、私はこっち見て!と呼び掛けました。しかし父だけ現れず、どこへ行ったのかと思ったら二見かえるをじっと見ていたのです。
そして「懐かしいなぁ。小さい頃、よくこうしてお前をおんぶしていたんだぞ。」と笑みを浮かべていました。
「夫婦岩そっちのけなんてお母さんに怒られそう…」と思いつつも、私も懐かしい気持ちになり心が温かくなりました。大切な記憶を思い出させてくれた伊勢。また家族そろって訪れたいです。
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息子を病気で亡くしていて夫婦二人になってしまい寂しく過ごしていましたが、こんなんじゃだめだと、3人で行ったことがあった伊勢神宮にお参りに行きました。
参道を歩いている途中見上げると、真っ青な空に雲が。天使の羽のように見えて、息子も一緒にきてくれたように思えて、すごく感動したのを今でもよく覚えています。生きていたら二十歳の息子。また、伊勢神宮にお参りに行き、どこかで美味しいお酒でも飲めたら嬉しいです。
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今44歳です。自分が小さい頃から正月は伊勢神宮に行ってます。彼女と付き合って結婚して子供ができた今でも行ってます。もう30年ぐらい正月のイベントです。今では子供達から今年も伊勢にいくの?って聞かれるようになりました。
いつも楽しみは手こね寿司です。子供達も小さいけれど楽しみにしてます。子供達も大きくなって皆いろんな道を進みますけど365日の1日だけは皆で伊勢に行こうって約束してます。
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5年前に亡くなった父との思い出。
父とは色々な所へ行きましたが毎年恒例のお伊勢さんの旅行にとても思い入れがありとても大事な場所であり一生忘れる事のないお伊勢さんです。
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父と母、妹と家族旅行で行っていた伊勢。
20歳になった年の旅行で、夫婦岩をみながら父がふと言った。
「この場所はお前が生まれて1歳の時に初めて母さんと旅行にきた場所だよ。この夫婦岩の前で写真とってな、ここは変わってないな」
「あれから20年か、早いなぁ-。来年は成人式か、大きくなったな。全然覚えてないだろ??」
父はそういって、笑った。普段厳しい父の、優しい一面を垣間見た。
20歳のお祝いにと初めて白い真珠のネックレスをプレゼントしてくれた。伊勢がよりあたたかく特別な場所に感じた。
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伊勢には、昭和34年の伊勢湾台風の直後に、小学校の修学旅行で初めて行きました。伊勢神宮へ行く途中、木々が台風で倒れていたり、五十鈴川の水ににごりがあったりして、すさまじい爪痕がいたる所にありました。
宿泊の翌日は、夫婦岩の日の出を見に行きました。「幸せを祈るのだ」と先生に言われていたので、当時病弱の母親が元気なりますようにと、周りの友達に気づかれない様に何度も何度も心の中で大きな声を出して、神様に届いて欲しいと思いを込め、お祈りをしました。伊勢という地名を聞くと、台風、神様への幸せのお願いなど、初体験が沢山あった思い出が瞬間によみがえってきます。
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毎年、私が幼い時から家族で旅行に行ってました。
自分も結婚し子ども2人に恵まれました。近鉄で行く伊勢旅行が大好きだった実の両親が亡くなりましたが、変わりに自分の家族と心の中に居る両親と共に毎年伊勢神宮を始め色んな場所を探して楽しく旅行に行ってます。
そして沢山の思い出と写真を残していきたいと思ってます。
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息子が就職して付き合っていた彼女と京都で暮らしていた頃。
私は、お伊勢参りを計画し一人で行くのも、と二人を誘ったが、息子は仕事で彼女と二人でお伊勢参りをする事に。
私は明るくて可愛い女性と思って、早くハッキリすれば良いのにと思っていた。
彼女と二人、たわいも無い話をしながら、二見ヶ浦、外宮から内宮 おかげ横丁。夕方遅く息子と合流、三人で食事。楽しい思い出です。
1年前、二人は結婚して、今年娘が生まれ子育てに頑張っています。これもお伊勢さんにお参りしたおかげでしょうか。幸せな日々を送らせて頂いています。
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母方の祖母が生前みんなで旅行に行きたいと言いながら叶わなかった三重旅行の話を母から聞き叔母2人に声をかけ数年前から毎年三重に訪れてるようになって3年、母の痴呆の症状が出はじめ2年前が最後となりましたがいつも「お母さんと一緒に来たかったね」と思い出話をしながら楽しい時間を過ごせたようでよかったです。
今はもうその時の記憶もないのですがたまに思い出したように「昔ちゃぁちゃん(祖母)と○○ちゃんたち(叔母)と三重に旅行に行って夫婦岩とか伊勢神社に行ってね、赤福食べてね・・・」と母の中では祖母と4人で行った記憶になっているようで嬉しそうに話しています。
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たまたま伊勢神宮近くで子供のサッカー試合があって、空いた時間に立ち寄りました。朝早く、そしてあいにくの雨。天気予報どおり。なので人もまばらで。また違った趣きがありました。
いつもは賑わっている赤福本店もシーンとした感じで、黄色の茶釜に赤福を置いて、ゆっくり眺める時間を持つことができました。時間と天気の偶然がもたらしてくれた素敵なプレゼントでした。周りのお店にも、道路にも、町にも、伊勢神宮と同じ空気が流れていました。
今自分が座って、外を眺めている時間、人を人らしい豊かな時間を運んでくれる場所なんだなあというのが実感できました。ありがとうございました。
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癌で闘病中の母と2人で3年前に伊勢神宮と鳥羽に行きました。ギリギリまで行き先を伝えずにサプライズの旅でした。
真夏で闘病中の身体には神宮を歩いて回るのはキツかったと思いますが、とても喜んでくれました。御神馬を見て「お馬さんと目が合った~」と喜んでいた母の笑顔が忘れられません。
思い出の写真はその時に撮った御神馬の写真です。翌年、母は亡くなりましたが最後まで嬉しそうに語っていました。コロナが収まったらご挨拶とお礼に再度伺いたいと思っています。
母との素敵な思い出が出来ました。ありがとうございました。
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はじめての子連れ旅行で、伊勢旅行最後に夫婦岩に向かう途中、疲れたけど夫と娘が前を歩く光景にほっこりし夫婦岩のように夫と子ども達と仲良く暮らしたいと思った。
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娘がじいじばあばと初めて旅行に行ったのが伊勢でした。まだ小さかったのに、内宮を一人で歩いてびっくりし、成長を感じたのを覚えています。
状況が落ち着いたらまた行こうねと話しているので、その日が来るのを楽しみにしています。
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伊勢と言えば、人生初の家族と離れてのお泊まりした小学校の修学旅行を思い出します。
時は流れて、我が子も同じ行き先でした。その子も、大人になり家族で伊勢旅行に行き、お互いに泊まった旅館を見つけて、気持ちはタイムスリップし、思い出話に花が咲きました。
時代は違っても、伊勢の地で得た楽しい思い出は、変わることなく親子の共通して持つことができた大切な宝物です。
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17年に及ぶ闘病生活の末、母が他界。仕事人間だった父が珍しく伊勢旅行を提案してきました。
その旅行には、亡き母の写真を持ち歩き、観光名所を廻るたびに、写真に話しかけていたことを憶えています。後から知ったのですが、伊勢は両親の新婚旅行で訪れた思い出の場所だったのだとか。堅物な父が写真の母に話しかけていた姿が印象的でした。
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まだまだ高速道路が整備されていないころ、山際の民家に咲いている夾竹桃の赤い花を見ながら、伊勢へ向かった夏。五十鈴川で手を洗い、玉砂利の上を小さな足が駆けて行った。家族で大きな庭を見ながら、食べたモチモチの伊勢うどん。
あれから伊勢うどんは、食べているが、あの伊勢うどんの感動は無い。もう一度食べたい。
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私がまだ小さかった頃のうだるような暑い夏、祖父に手を取られながら買ってもらったきゅうり棒を片手におかげ横丁を歩いた記憶があります。どこか非日常めいた雰囲気の中、目にするすべてが珍しくてきらきらしていました。普段厳しい祖父もなんだか優しくて、特別な思い出として今でも覚えています。
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幼い頃、共働きで家に居ない両親の代わりに車を運転できない祖父母が特急に乗り、季節ごとに連れてきてくれました。
私達が成人し年老いた祖父母の手を引いて一緒にお伊勢さん参りし、嬉し泣きしてくれた祖父母、良き思い出です。
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母とすすった伊勢うどん。あの濃いつゆと初めて味わうもっちりうどん。
今は遠き昔、いつか嫁さんも一緒に行きたい。あのなんとも言えないもっちもちな太いうどんを教えてあげたいなぁ。
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伊勢と言えば子供の時に年に一度の父と母との家族旅行は毎年伊勢でした。車で伊勢まで行き子供ながら必ず寄るとこは水族館の横にある真珠のアクセサリーを買ってもらうのが楽しみで楽しみで仕方なかった。
ピンクのハートの形をしたイヤリングは現在50歳になってもつけています。周りには子供の頃に買ってもらったものを今も付けてるとは、なかなか言いづらいですが綺麗に子供の時に買ってもらったままです。
今でも伊勢に行くとあの時と変わらない風景は懐かしさと子供に返った気持ちが蘇ります。伊勢は私の家族の思い出です。
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「お世話になった人たちに配りたい物がある」老いた母が言うので、車椅子を押しておかげ横丁に足を踏み入れた。伊勢には時々訪れている。
その都度必ず買う豚捨コロッケを啄んで、伊勢萬の店頭にて御神酒『おかげさま』を配送手配する。老眼鏡を上げ下げして携帯の住所録をぽちぽちと探る母の白髪に、私は斜陽を見た。
「お母さん、」初めてそう呼んでみる。
「真珠は買わないの?」母は一拍遅れて顔を上げた。
「燃えないから、いいわ」コロッケを食べてお酒を買って、母との最後の伊勢旅行は随分つましいものだった。
後日遺された真珠を着け、葬送に立つ。焼き場に立ち上る煙は、少しおいしい匂いがした。
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父の故郷の伊勢。
祖父母が他界してからの数年、私一人で、何度か訪れ、残された祖父母宅に宿泊しながら、伊勢市内を徒歩で巡り、2週間、過ごしました。
街の情景、街に漂う香り、夕焼け小焼けのメロディー。地元の人達からいただいた温かい心。
心身ともに調子を崩し、落ち込みがちな私の心を癒し、思いやり、温かい笑顔、ゆったりと穏やかに過ごす事、ひとつひとつの物に愛着を持つ事の大切さ、暮らしにいっぱいときめきがある事に気付かせてくれた伊勢。
気付かせてくれた事と感謝の気持ちを心に抱き、これから過ごし、生きていきます。
ありがとう、伊勢。
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今年の2月にコロナ感染した娘に伊勢神宮のお守りを持たせて、無事生還した娘が伊勢神宮行きたいと行ったので2人で行った時五十鈴川でのんびりして帰ろうとしたら、聞き覚えのある声が‥。
離婚した旦那のお母さん【義母】が偶然友達と来てました。
10数年ぶりのおばあちゃんと再会し涙涙。
会いたかったとおばあちゃん。なかなか連絡も取れず疎遠になりましたが、神様が会わしてくれたのでしょう。
おかげ横丁の裏手でパシャリ。
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数年前、祖母、母、弟と私で祖母の希望の伊勢神宮にお参りに行きました。歩くのが大変だった祖母は車椅子を借りることが出来、念願の伊勢神宮にお参りが出来、おかげ横丁で美味しいものを食べ、何よりも、あまり会わない弟に車椅子を押してもらえた事に、祖母が楽しそうだった記憶しかありません。
もう祖母は亡くなってしまいましたが、今度は、母が行きたい。と言っています。私も弟も結婚して家を出ていますが、また、今度は家族皆で行きたいと思います。
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私が小学生のときの修学旅行が伊勢でした。二見浦のすぐそばに泊まっていて、朝早くにお参りした記憶があります。
娘が生まれてからその思い出を辿りたくなり、家族3人で二見浦はもちろん、伊勢神宮、スペイン村をまわり、また新たな思い出が出来ました。
その後、息子が生まれて、また家族4人になってから再び伊勢に。二見浦、伊勢神宮、鳥羽水族館やイルカ島に行きました。
いつもそこにあって、懐かしさもあり訪れる度に新しい発見もあります。
私にとっての伊勢は、ただいまと言いたくなる場所です。
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11月14日に伊勢湾フェリーに乗って実家の両親と祖母を誘い伊勢神宮へ行ってきました。80を超えている祖母は足腰が弱く前日まで行くのを辞めておこうかと思っていたそうです。
それでもせっかくだからとみんなで行くことにしました。下宮、内宮を祖母の手を取りゆっくりと歩き参拝しました。風もなく穏やかに晴れた日で旅行日和でした。
祖母は全く疲れた様子を見せず歩いて参拝出来たことに感激し何度もありがとうありがとうと言ってくれました。両親も孫と出掛けれて喜んでいてみんなが幸せな気持ちになれた伊勢神宮でした。神様に感謝です。
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吹き荒ぶ風の強さと寒さの中で見た夫婦岩は、本当に寒すぎて家族全員笑顔なしでした。なぜか緊張感でいっぱいだった伊勢神宮は、歩く距離の長さに驚きながらも荘厳な雰囲気に圧倒されましたが、こどもが御手洗川で遊ぼうとするのを必死で抱きかかえて確保していました。
お参りの後はおかげ横丁ではおいしい鮪のづけと鰻、赤福を頬ばる嬉しそうなこどもの笑顔…。
あぁ、それはもう20年前こどもがいっしょの初めての遠出の家族旅行でした。遠出で疲れているはずなのに、本当に何もかもが楽しくて今でもはっきり覚えています。きっと伊勢は変わらずまた私達を迎えてくれるはず!待っててね!
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伊勢神宮に私の家族でツアーで行った時でした。暫く会ってない父が亡くなってからでしたので落ち込んでいたのですが、バスを降りて外宮に向かおうとした時に急に雨が私の所辺りに降ってきたのです。ビックリしました。先にそのまま進んで行くと雨も止んで内宮も参拝出来ました。
ずっとモヤモヤしている私に父が会いに来たように感じました。思い出すと、とても不思議でいつまでも心に残っている思い出です。伊勢神宮に又機会がありましたら行ってみたいと思います。そしたら又父が雨を降らせるかもしれませんね(笑)
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数年前に次男が大学院を卒業し、家を離れ自立する前に家族で旅行しようと既に独立していた長男も呼び寄せてお伊勢参りへ出かけた。
家族揃ってドライブ旅行をするのは十数年ぶりで、当時は私一人で運転したものだが、長男、次男、私と3人交代で快適な旅を満喫した。
車内では昔と同じく妻がオヤツを出すとあっという間に消えてなくなり誰が食べ過ぎかと大笑い。お伊勢参りでは外宮、内宮とお参りさせて頂き彼らは何をお願いしたのか分かりませんが無事、2人とも結婚が決まり親としては一安心。次は息子達家族も一緒にお参りさせて頂きます。
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わたしが幼い頃、小学生の頃今は亡き祖父と2人で二階建ての電車で賢島に行ったのが、今でも楽しかった思い出が蘇ります。
次に3年前ですが、再婚した主人とその時はまだ結婚してなかったですが、近鉄電車で伊勢に行きました。行きしなの電車でチューハイ飲みながらワイワイ行き、着いてからは伊勢神宮行って赤福で赤福氷ずーっと食べたかったやつ食べたり、ホテルでは伊勢の美味しいご飯のバイキング楽しんだりと楽しい思い出ばかりで、三重県大好きでまた行きたいです。
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令和最初の日の出を拝み、名物赤福餅を手土産にと思い、名古屋の実家へ電話。寝込む事がおおくなった母に赤福餅は?と聞くと要らないとの事。とはいえ、私も食べたいので購入。
実家へつくと、足の悪い母に頼まれ買い物に行き、小一時間ほどで帰宅すると、赤福餅が残り2個になっていたので、帰宅していた弟に食べ過ぎだというと、食べていないと。母だった。それが、母との思い出の最後になった。
その後のコロナ禍、伊勢の神々が最後に笑い話になる思い出をくださったのではと今は、そうおもう。
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「お伊勢様に行きたか」五年前の秋、おばに頼まれた。足腰達者とはいえ八十八歳。長崎県の片田舎から飛行機など交通機関を乗り継ぎ、ほぼ一日かけて三重県へ到着した。
一泊し、翌朝伊勢神宮を参詣。おばは内宮・外宮とも驚くほどの健脚で歩き回り、熱心にお参りした。「ああ、色々旅してきたけど、お伊勢様で締めくくれて幸せばい。ありがとう」おかげ横丁で、伊勢うどんと赤福を平らげ、満面の笑みを見せたおば。
「何が最後ね。また旅行しよう」だが翌年、おばは脳梗塞で倒れて施設へ入所。たしかに最後となった伊勢旅行。車いすで当時の写真を眺めては、嬉しそうに笑うおばである。
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津市で暮らしていた頃、気がかりだったのは愛知県に住む60代の母だった。乳癌が転移したせいか、気力も落ち込み外に出なくなっていた。どうしたら外に連れ出せるか。妹と弟と相談して誘ったのが伊勢神宮だった。
青空の下、五十鈴川に着いたら3歳の息子は大はしゃぎ。魚を探したり、落ち葉を拾ったり。それを見つめていた母の顔が忘れられない。
「気をつけや~よ」と目を細めながら孫の手を握る母。帰り際「きょうはありがとう。元気出たわ。あんたらも元気にやりゃ~よ」と母が言った。
あれから12年。大きな手術はしたが母は健在だ。それもこれもあの時の神宮参拝のお陰だと私は今も思っている。
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私の初めての一人旅は、伊勢でした。
シングルマザーとして、息子を育て上げたご褒美旅に伊勢を選んだのは、息子が成人し、子育てが一段落した節目と伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮が、私の中でシンクロしたからです。
20年間、子育てと仕事に追われて過ごした私を、お伊勢さんは、とても温かく、穏やかに迎えてくれたこと、今でも思い出すと、目頭が熱くなります。
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日本でも特別なパワースポットと聞いて、気合が入ります。一年のお礼と、来る一年のお願いに、はせ参じる心構えです。
癌の闘病中に、病状が良い方向に傾いた時に、未だとばかり、三組の家族でお参りしたのも、お伊勢さんでした。母親を囲んで、寄り道と休憩を繰り返しながら、時間をかけて、じっくりと堪能しました。
母親は亡くなりましたが、病院でもお伊勢さんの話を楽しくしていました。体調的にも大変な思いをしての旅行だったと思うのですが、残される者たちにも、思い出話が出来るように、機会を作ってくれました。